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COLUMN
2017.08.22

バック・トゥ・ザ・カルチャー04 1997年の『恋する惑星』[writer]西森 路代

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今年は、香港が中国に返還されて20年目を迎えた年です。返還されたのは1997年の7月1日のこと。2002年に日韓共催でワールドカップがあったら、韓国の話題に触れることが増えたように、1997年前後は、香港の話題に触れる機会がたくさんありました。

 

私が香港に初めて行ったのは、1995年のことでしたし、その翌年の1996年にも友達と香港に行きました。そのとき、友達は私よりも一足早く香港にはまっていて、街の中にいるだけで、ワクワクして、ここにトニー・レオンとか歩いてないかな!と言っていました。ホテルの中でも、香港スターの歌謡番組を見ていて、私は興味はないけれど、真似して歌ったりしていました。

 

 

『恋する惑星』は文化系にとってマストな映画

二度も香港に行ったこともあり、香港返還でさまざまな香港映画が松山(のシネマルナティック)にもやってくるようになっていたので、なんとなく『恋する惑星』などを見にはいってみました。当時は、その世界観のオシャレさにドキドキしたし、全長800mのヒルサイド・エスカレーターなどのロケ地にも訪れたし、金城武にも憧れたけれど、それはあの頃、誰もが感じるものであって、私だけの強い感情が芽生えるというものとはまた違っていました。

 

 

『恋する惑星』では、私は香港にどハマりする状態にはなりませんでした。ジャッキー・チェンとユン・ピョウとサモハン・キン・ポーと『Mr.BOO!』シリーズでしか知らなかった香港にも、こんな世界があるのかと知り、憧れの気持ちを抱くという種類のものでした(後になって、ジャッキーやユンピョウやサモハンのことも『Mr.BOO!』シリーズのことも、また再評価することになるのですが)。

 

 

そんなこんなで、香港の街並みをスクリーンで見るのは楽しくて、シネマルナティックでの香港映画特集の週に、なんとなく『欲望の街 古惑仔』という映画を見にいきました。ちょうど二度目の香港で宿泊していた銅鑼湾が舞台になっていたことにもひかれました。また、このタイトルは、『恋する惑星』のウォン・カーウァイの『欲望の翼』にあやかったものだし、宣伝の文句でも『恋する惑星』で撮影を担当したアンドリュー・ラウが監督をしたということをうたっていました(アンドリュー・ラウといえば、いまや『インファナル・アフェア』の人ですが)。私は、オシャレ映画だと思って『欲望の街』を見に行ったのでした。

 

 

しかし、『欲望の街』は、ウォン・カーウァイとは真逆の世界でした。街のチンピラが主人公で、アート系というよりは、オリジナルビデオ(いわゆるVシネ……これも私は後でハマることになるのですが)のような雰囲気のほうが強いものでした。当時、ウォン・カーウァイのオシャレさには惹かれながらも、その映画の良さがまだわからなかった私にとっては(それも後に覆されるわけですが)、こっちのほうがツッコミどころも多くわかりやすくハマれる要素が多かったのです。

 

 

中でも惹かれたのは、アクの強い悪役の面々。このシリーズで極悪だけどどこか滑稽な役を演じたアンソニー・ウォンやン・ジャンユーのことはその後二年くらい憎々しく思うくらいでしたが、そんな俳優がいるからこそ、香港映画の魅力にずぶずぶとハマっていき、同時にインターネットをやりだしたこともあって、香港映画の情報をむさぼるように集めていきました。ニフティのパソコン通信の香港映画フォーラムにも顔を出し(発言はほとんどしていませんでしたが)、実際にファンタスティック映画祭などに遠征しては、オフ会で香港映画好きの人と集いました。

 

 

今では、好きなことで遠征することも、趣味でつながった人と実際に会うことも多くなりましたが、当時はけっこう珍しかったのではないかと思います。

 

 

そのころ、最初にハマった香港スターは、『欲望の街』に出ていた陳小春という俳優でした。わざわざ松山から上京したときにはロードショーを見たりもしていたし、ちらしを集めるのも楽しみでした。小春が来日すると聞けば、そこに行けないことで、いてもたってもいられなくて心がざわざわした時期もありました。当時、香港スターが好きな人々は、「私が香港に行くから俳優は日本に来なくていい!」と口々に言っていました。日本に来ても、ちゃんとイベントに参加できなかったりしたら、心残りが大きいからです。そして、そのころから、私は会社の代休を土日にくっつけては香港に行くようになっていました。

 

 

 

三日休みがあったら香港へ

 

松山から香港に行くのはけっこう大変です。金曜日に休みが取れたときは、木曜日の夜に仕事が終わると、21時ころのバスで東予港までいき、オレンジフェリーに乗り、そして金曜日の早朝に大阪南港につくと、空港まで移動。9時くらいの飛行機に乗れば、13時には香港の空港についていたのです。帰りは日曜の昼便に乗り、夜に大阪につくと、大阪の友達と夜ご飯を食べ、23時ころの夜行バスに乗って早朝には松山につき、そのまま会社に出勤するというのが定番のスケジュールでした。

 

 

南港まで行く船には一人で乗りましたが、それでも、ワクワクした気持ちが大きくて、船の中の時間ですら素敵に思えるほどでした。

 

 

香港に行って何をしていたのかというと、香港迷(香港の好きな人のことはこう呼ばれていました)は、だいたいは映画を見て、好きなスターのイベントに行くということが定番でした。私は、単に香港をぶらついているだけでも楽しいというときもありました。不思議なことに、行き帰りはひとりでしたが、香港には誰かしら友達と一緒でした。

 

 

私は次第にショッピングモールなどで行われるスター(明星と呼びます)のイベントスケジュールを蘋果日報や東方日報という新聞をチェックして、そこに向かうということもしていました。

 

 

びっくりするのは、そうやって新聞で見てイベントに行ってみると、明星との距離がやたら近いということ。初めて『欲望の街』の陳小春に実際に会ったときは、100HKドル以上の寄付をすれば、プリクラを本人と一緒にとれるという慈善活動のイベントでした。

 

 

近年は、アイドルと2ショットを撮れるイベントも存在しますが、1997年では、ほとんど考えられなかったのではないでしょうか。だから、その気軽さにかなり面喰いました。

 

 

思えば、新聞を見てショッピングモールのイベントに行けば、お目当てのアイドルがなにかやっているというのも、今でこそ当たり前ですが、やっぱり当時の日本や松山ではなかなかないことでした。もしかしたら、香港って芸能の先端をいっていたのかもしれません。実際に、長らくアジアの映画産業の中心地ですしね。

 

 

あの歌との再会

こんなにも香港にハマった私は、松山で広東語を学ぶサークルに参加するようになりました。まだインターネットはあっても、YouTubeがあったわけではない時代に、そこで香港直輸入の歌番組や映画のビデオを見せてもらいまくっていましたが、ある日、いつものように歌謡番組を見ていて唖然としました。

 

 

それは、1996年に真似をして歌っていたときの番組だったんです。なぜそんなに鮮明に覚えているかというと、実際に「しーくぉん、ちょいしーほんやんー」と中川家のように広東語を真似をして歌ったからこそ、メロディが自分の中にしみついていたのです。

 

 

この歌のことを私はすっかり忘れていたのですが、このコラムのために30分ほどYouTubeと格闘したところ、その曲はアーロン・クォックの『時光』というタイトルで1996年のリリースされたものでした。タイミング的にも二度目の渡航とドンピシャですし、その上、「しーくおん」と歌っていたのは、タイトルの「時光」の広東語読みでそこもドンピシャだったのです。

 

 

それにしても1996年に「トニー・レオンどこにいるかな」と言っていた友達はすっかり香港迷から足を洗い、「香港スターなんて知らないよ、なんだよこの歌は!」と冷めた目で友人を見つつ広東語の歌をまねていた私のほうが、香港にズブズブになってしまいました。

 

でも、あのときズブズブになっていなかったら別の人生を歩んでいたのではないかと思うのです。

西森 路代

西森 路代

フリーライター。TBSラジオ文化系トークラジオLife出演。WEBRONZA、TVBros.などで執筆。連載は日経WOMAN ONLINE、月刊サイゾー、messyなど。本は「女子会2.0」「K-POPがアジアを制覇する」

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