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愛媛 ある冬の日 島のパン屋で
空気が澄む冬は、パンが一層香り立つ気がするし、一層おいしくも感じる。
家にこもりがちな日々を脱いで「わざわざ」と言いたくなる
遠くのパン屋へ旅気分で行ってみよう、と思い立つ。
行き先に選んだのは、松山・中島で1軒だけ営むパン屋「しまのぱんかふぇ tetote」。
ある冬の日、離島のパン屋をめざして船に乗った。
ソフトでこぶりな“島好み”のパンをつくる、島のパン屋。
みかんの収穫シーズン、みかんの島・中島行きのフェリーはみかん関連の人たちで混み合う。
フェリーが出る三津浜港で、日の出と出港を車のレーンで待つ。
ほぼ満席の船内で1時間ほど揺られ、中島の大浦港へ。
そこから対岸へと車を走らせた。
波のささやきが聞こえる瀬戸内海の沿岸で、
寄せ合うように建つ民家の中に「しまのぱんかふぇtetote」はあった。
早朝から訪ねたのは、島のパン屋の1日を体験したかったから。
店主の山田健生さんに無理を承知でお願いすると、ありがたいことに引き受けてくれた。
「実はみかんのシーズン中はそこまで忙しくないんです。
島民の皆さんは日中、収穫作業が忙しく山から降りてこないので。
逆に夏は時間があるので売れるんですよ」。
世の中の売れ行きとはまるで正反対。
みかんとともに暮らしがあることをリアルに伝えるエピソードにほっこりする。
tetoteのパン工房は、一人で作業するのにぴったりの小さな空間だった。
通り沿いはガラス窓になっていて、外から仕込みの様子が見える。
山田さんは一人黙々、パンをこね、かたちを整えてオーブンへ、を繰り返していた。
「島の人たちの好み」という小ぶりの愛らしい惣菜パンと
菓子パンは1種類につき数個ほどとかなりの“小ロット”で焼きあがった。
慌ただしくなる開店前、袋に詰めたり、パンを並べたりと山田さんをお手伝い。
オープンの11時、妻の由紀さんがショップの引き戸を開けた。
しばらくすると、お気に入りのパンを“指名”するおばちゃんたち、
仕事の合間に昼食を求めるお兄さんと島の人たちがパンを買っていく。
「中島のおみやげにと選んでくれる方もいて本当にありがたいです。
早々に売り切れることもあれば人気のパンでも売れ残ることがある。そのあたりは難しいですね」。
そう言いながら山田さんは、ショーケースからなくなりそうなパンを追加で焼くために工房へ走った。
小麦をはじめ、島の食材も使用。
午前7時ごろからこの日のパン作りはスタート。
メロンパン、クリームパンといった菓子パン、ちくわパン、焼カレーパンなどの惣菜パンと計13種類を焼きあげた。
「ミニ生食パン」(300円)は中島産のハチミツと小麦を使う。
山田さんが中島の地域おこし協力隊だった頃、小麦の栽培にトライしたもののその難しさに断念。その後、元農業指導員の経歴を持つ協力隊が着任し、中島分校の生徒たちと栽培している。ほかにも島の食材も積極的に使う。
瀬戸内海とパン。ふたつの好きを暮らしにとり入れて、いま。
作業がひと段落した山田さんに、中島でパン屋を始めるまでのことを尋ねた。
大手百貨店に勤めていたころ、夫婦でおいしいパン屋をめぐることが休日の楽しみだったそうだ。
もう一つのお気に入りが瀬戸内海。転勤でめぐってきた広島・呉で、穏やかな表情、多島美に惹かれた。
いつか瀬戸内海が見える場所でパン屋を開きたい。
そんな夢を描いた山田さんは55歳、早期退職して新しい人生と仕事に挑む。
退社した翌日からパンの学校で1年学び、それから新天地を探した。
都市部から移住し、地域活動をする「地域おこし協力隊」と中島の存在を知り、
「これだ!ここだ!」と直感。
2018年、島の協力隊となり、時間をかけて島に慣れながら島の人たちが求めるパンを考えた。
そうして2021年、海沿いの空き家をリフォームしtetoteを開いた。
パン屋の1日は駆け抜けていく。
それでも閉店後、工房を出るとすぐに瀬戸内海の夕景が待つ。
光景に心すべてを奪われる瞬間がある。それが山田さんの日常だ。
「ずっと転勤族だったので、地域にも近所の人たちとも関わらずに生きてきました。
いまは住む場所の歴史を学んだり、島の人たちと話したりするのが愉しい。
瀬戸内海を毎日見ることができるなんてとてもぜいたくです」
tetoteのパンを持って、中庭のベンチに座った。
日常がここで、たまに街に渡る暮らしが非日常なのもいいかもしれない。
そんなふうに思ってしまうほど、身体を包み込む音と空気がやわらかい。
tetoteのパンを食べる。添加物を使わない山田さんのパンは、
作り手の実直さ、島の人たちへの想い、島の暮らしを映した温かい味がした。
information
愛媛県松山市熊田甲696(中島)熊田バス停から100m
定 休 日 : 火曜・水曜、第2木曜定休(その他、不定休あり)
営業時間 : 11:00~16:00
駐 車 場 : 有
訪ねた中島について
三津浜港からフェリーに乗って約1時間で着く忽那諸島最大の島。
夏は名物のトライアスロン大会があり、マリンレジャーも人気。
かつて15,000人以上もいた人口は現在、2300人ほど。
お試し移住施設を整え、移住者を積極的に受け入れている。